R774@まとめ屋 (@kendou774 )

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Location 実走!酷道・険道のまとめ
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Account created 21-06-2013 23:10:35
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Twitter Web Client : 【崩壊する集落】
『山梨県の山奥にトロッコが通っていた』その情報の真偽は、文化圏研究所でも分からなかった。そして聞き取りを行うために向かった近隣集落。しかしそこは、もはや集落ではなかった。

Twitter Web Client : こっそり連絡です。高島に渡る有志の方を極少数募集します。条件は厳しいです。DMでお願いします。
【募集条件】
・益田市、及びその近隣の方
・危険を伴います。
・草刈りが必要になります。
・日程は10月中頃
・当日中止、島を直前にして引き返しもありえます。
元島民の方にも同行頂く予定です。

Twitter Web Client : 以上で大多和集落についてのツイートは終わりです。この場をお借りして、お世話くださった飛騨市教育委員会のNさん、大多和区長のFさんにお礼申し上げます。最後に、今回お聞きした事項・調査した事項については、ツイートしきれなかった事が多数あります。後日改めて纏めさせていただきます。

Twitter Web Client : 大多和集落には爽やかな風が吹いていた。もうすぐ秋が来て、冬が来る。そしてまた深い雪に埋もれる。辿り着けなくなって13年。閉鎖ゲートの先の大多和は当時と変わらぬ姿を見せていた。『奥飛騨にある桃源郷』そこには、いずれ歴史が途絶えることを知りつつも、今も桃源郷を守る元住人の方々がおられた

Twitter Web Client : 帰路に就く。振り返れば大多和集落の素晴らしい風景が広がる。冬場は通常で2、3m、多い時で4mの雪が積もるという。車道が除雪されることはなく、深い雪の中に親達はかんじきで道を作り、子供達はその道を歩いて佐古分校まで通っていた。そのような住人の方々の苦労は、この景色からは想像できない。

Twitter Web Client : 更に纏める。S45年に大多和、佐古とも離村し、一旦は土に移り住んだ。その後、或る家族は神岡へ、或る家族は富山へと散っていった。今でも大多和の元住人の方々は催事などで集う。しかし、佐古や跡津川は集うこともなくなった。Fさんはこう仰る。『子供達はここに来たがらない。私もあと10年だろう…』

Twitter Web Client : この立派な仏壇は、有峰湖の湖底へと消えた有峰集落からとあるお宅に引き継がれたものだ。そのお宅というのはFさん宅である。実は、大多和集落に来る半月前、Fさんにお話を伺っていたのだ。ここにお話の内容を纏める。(ここまでのツイート内容と重複する部分があります)

Twitter Web Client : それにしても、大多和へ至る道が閉鎖されたことを集落の方はどう思うのか。Fさんは『閉鎖されない方がよかった』と仰る。ゲート閉鎖前には色んな人が大多和に来ていたが、閉鎖後は誰も来なくなったのだ。ただ、道の管理、そして何かあった時の責任問題を考えると、ゲートは閉めざるを得ないのだろう。

Twitter Web Client : 大多和集落のシンボルとも言える白山神社。巨木に囲まれたその姿は、集落内の何処からでも目につく。集落の規模とは対照的に立派な本社と鳥居が立つ。鳥居には有峰ダム建設関係の名も見える。それにしても、境内は綺麗に整えられている。住む人はいなくとも、今でも元住人の心の拠り所なのだ。

Twitter Web Client : しかし、何故大多和集落へ至る道が閉鎖されたのか。元々、北電、土建会社で管理されていた私道であったが、他の道路整備が進んで手を離したいということになった。そして大多和集落が管理することになったが、管理責任が問われるご時世ということもあり、ゲートを作って道を閉鎖したのだ。

Twitter Web Client : 一本道しかない大多和集落であるが、過去には各方面への道が通じていた。そして現在からは想像できないが、有峰よりも山之村との結びつきが強かった。Fさんのルーツは源氏であり、長野から流れてきたそうだ。もしかすると、大多和の祖先は長野から山之村を経由してこの地にやってきたのかもしれない。

Twitter Web Client : 集落内には飛騨地方でよく見られる様式の家屋が立つ。屋内で家畜を飼っていたこともあり、家屋は非常に大きい。屋根は茅葺きではなく板張りだ。注目すべきは画像の板倉で、幻の集落である有峰集落から移築したものなのだ。車道のない時代に人力で運搬したというから驚かざるを得ない。

Twitter Web Client : 大多和集落には元々6軒の家屋があり、現在は母屋が4軒、板倉(納屋)が2軒残っている。今でも元住人の方によって管理されており、Hさんにいたっては毎日のように通われて畑仕事をされている。離村はS45年。時代の流れとともに、山での仕事が無くなってしまったのだ。

Twitter Web Client : 集落には作業車が停まっていた。茂住にあるお寺の檀家の方々が、お寺で使う木材を取りに来ていたのだ。暫し談笑した後、作業車に木材を積んで山を降りていった。集落には私とFさん、そして集落に戻っていたHさんだけになった。川を流れる水の音、風に揺れる木々の音、それ以外に聞こえてくる音はない。

Twitter Web Client : 『大多和集落』
険しい谷間の隘路を走り、カーブの先に見えてきた風景。それは13年前に見た風景と同じであった。目の前には広々とした平原が広がり、その中にポツリポツリと家屋が立っている。ここが深い谷間とは到底思えない。ただ、以前は見られた耕作地は雑草の生い茂る草原に変わっていた。

Twitter Web Client : 閉鎖ゲートから先は未舗装路に変わる。かつてはここから大多和峠まで未舗装であったが、それは今も変わっていない。路面は閉鎖前よりも凹凸が激しくなり、普通車には厳しい道となっていた。それにしても、閉鎖前は今よりも整備されていたとはいえ、この先に料金所があったとは想像できない。

Twitter Web Client : いつもであれば、行き当たりばったりに集落を訪ねるところであるが、今回は違った。『大多和集落の歴史を調べたい』飛騨市教育委員会に問い合わせたところ、大多和の区長であるFさんとお話する機会ができたのだ。更には、『熊が危ないから』との理由で大多和へ連れてきてくださったのだ。